SANTA's H.W(meigen-reikainiiki) [Since 2001/06/21]_[2001/6/21 更新]


霊界の言葉


 「スウェーデンボルグの霊界日記」◇エマニエル・ スウェーデンボルグ 著◇高橋和夫 訳◇たま出版刊より


殉教に功績をおくことによって天界で特別の恩恵を望むものは真の殉教者ではない。
さらに、以下のようにも言われた。
つまり、クェーカー教徒や他の者達のように多くの種類の殉教があったが、
異端はことごとくそれ自身の殉教を持ちうるのである。と
何故なら、自ら確信している者たちは、
何であれ自ら確信した「幻想」のためにすすんで死を引き受けようとする。
いや、それを熱望さえするからである。


愛の情愛
愛(love)は人間の生命の本質的な構成要素である。情愛(affection)は愛に派生し、
愛から生み出されたものである。
この愛も情愛も必ずしも善い意味で使われるとは限らない。
例えば、悪しき愛といえば、それは自己愛をさす。


「霊たちの世界」
「霊たちの世界」は、天界と地獄とのあいだの一つの固定した場所ではない。
それは人々が天界と地獄とのあいだにいるときにおかれている状態である。

この状態の中に、つまりこの「霊たちの世界」の中に、

1.誰であれ、以下のような状態におかれているときにいるのである。
すなわちその状態とは、
理解力と意志とが一つのものとしてはたらいていない状態、
したがって、
思考と意志、あるいは同じことだが、
真理と善、信仰と愛とが一致していない状態である。
ここから、「霊たちの世界」にいるのは誰であり、彼らがいつからそこにいるのか、
つまりいつその状態におかれるのか・・・・・が明らかであろう。

2.またこの状態の中に、自らの内部と外部が一致しないすべての者がいる。
すなわち、
人間が自分のあるがままの姿以外の姿で現れたいと願ったり、
自分の考えること以外のことを話したりするときは、その状態の中にいるのである。

3.この種の人々はまた、ある意味では前述の者たちと同じである。

これらの考察から、特に誰が「霊たちの世界」の中にいるかが明らかであろう。
彼らは以下のような人である。

1.人間は、幼児期から成人期にいたるまでも、霊の方面では「霊たちの世界」にいる。
なぜなら、人間は継続的に異なった状態の中におり、そのときは自由の中にいて、改良されうるからである。

2.人間はまた、その全般的な状態の変化に応じて個別的にも異なった状態の中にいるが、この変化は無数である。

3.人間はみな他生に入るとすぐ「霊たちの世界」にいる。なぜなら、人間はその知性的なものと
意志的なものとが一つのものとしてはたらき、その内部と外部が一致するようになるまで、
変化する状態におかれるからである。
人間は[最終的には]二つではなく、一つにならなくてはならず、また天界と地獄のあいだではなく、
そのどちらか一方にいなくてはならない。

4.天界にはいることができる者たちのもとでは、悪や悪の虚偽が「霊たちの世界」にいるときに
分離されることによって、[天界へ入る]準備がなされる。
悪しき者達のもとでは、彼らから真理や善が分離されるが、
それは彼らが悪と悪から生み出される虚偽との中に留まる為である。

5.ほとんどすべての者は最初、外なるものの中にいるが、やがてそれが遠ざけられることによって、
霊たちのあいだでの生活の為の準備をする。人間はそのとき、最初は粗雑な状態の中にいるが、
継続的に他生にふさわしいものとなって、霊的なものと呼ばれる。


「時間とは生命の性質です」


「天使たちの幸福の性質とは」
人間には認知不能の、きわめて精妙な、あるいはきわめて荘厳な想像力から発する歓喜は、
絶対的で筆舌に尽くしがたい、無限の多様性を伴う天界の楽園そのものなのだ。
というのも、表象が極めて生き生きとしているので、
それは人間が自ら想像したり思いついたりするものよりも無限にすぐれているからである。
これは、誰も自分自身のものであることを望まないで、
ひとりひとりがすべての者のためになることを最内部の情愛から熱望するという、
すべての者の相互的な愛と一致に源をもつ。


肉体の生命にいるあいだに慈愛に満ち、たとえほんのわずかな慈愛でも、
それを心から分け与えた人々は、他生では無限のもの、
つまり言い尽くしがたい報い−浄福−を受けるのである。
何故なら、慈愛からあらゆる浄福が発生しているからである。
彼らは、ここのあらゆる事柄において、言語に絶すほど多くの、浄福と一つになった慈愛を受け、
しかもそれは最も明瞭に認知できるものになる。
無垢な人々も同様である。[彼らが他生で受ける無垢と、地上のそれとの]どんな比較もできない。
なぜなら、他生では身体は猛威をふるわないし、身体の感覚的なものが命令することもなく、
彼らは・・・・・いっそう内的な認知に委ねられるために、個々のあらゆるものが高揚されるからである。
しかし、このことがらを人間が把握できるように述べることは不可能だ。
なぜなら、未知のことを理解することはふつうに与えられるが、
未知のことを認知することはそうではないからである。


天界の愛は隣人愛にほかならない
愛とは、自らを他者に与えようと願うことであり、
自らにではなく他者に仕えることに喜びを感ずることである。
そしてこうした者が多くいるとき、そこに相互的な愛が生まれるのである。
なぜなら互いに似たものは相互的だからである。
しかし、自らを他者にまさって愛する者や、金銭にがつがつした者、ましてや強欲な者は
この相互的な愛を受けることができない。


婚姻関係においては、当人たちのあいだに相互的に存在している愛が極めて強烈なものであるので、
かれらは一つになることを欲し、一方の者は他方の者に自らの者をことごとく分かち与えようとする。
真の結婚の愛はこうした互恵的な心情、あるいは、
自らを他の者の中に没入させようとする願望から発している。
ほかの一切の相互的な愛は、それらがこの相互性の原理を含む限り、この源泉に由来している。
相互性の原理がなければ、ほかの一切の愛はただそれだけのものである。
他の愛は、欲していることから成り立つが、
結婚の愛のように、「為しうること」から成り立ってはいない。
従って、結婚の愛は根本的なものであり、天界そのものであることが明白だ。


天界は、場所ではなく、生命の状態、つまり愛、仁愛、および信仰の生命の状態である。


歓喜を伴うその情愛それ自体が、聖言の中で意味されている、報いや報酬になっている。
すなわち、その楽しいという情愛がまさに報いであるからには、功績を求める思いは全然ない、
ということである。


[罪や悪の汚らわしさが真に承認されないうちは、祈りは何の効果も生まない]
人が自分の悪からただ免れようとするだけで、内心
「私は、悪から免れるように唱えさえすれば、罪の許しをうるだろう」と考えている限り、
その祈りには何の効果もない、ということが認められた。
罪は、それが心の奥底から真に告白され、ある種の内なる苛責(呵責)や苦悶を伴って、
その汚らわしさが承認されない限り、許されず、こうしたことのうちに、
またそのあとでのみ、祈りは効力を持つのである。
・・・・・そうでなければ、祈りや秘蹟(サクラメント)や外的な儀式にはどんな効果もないどころか、
これらは人間に誤った確信をいだかせてしまうのである。
なぜなら、悪から逃れるように祈って救いの手段を講じさえすれば罪は許されるのだ、
という考えによって、こうした祈りや儀式は人間の良心をまどろませてしまうからである。


[悪い連中は自分で自分に罰や不運を招いているのだ]
と言った。彼らはそうは思われないと考えて、
「そんなことはない、だって罰する者がやってきて罰しているではないか。罰するのは他の霊たちだよ。
だから、彼らは自分で自分に招く訳ではないのだ。」と言った。すると彼らは
「もし彼らが悪いことをしなかったのなら、罰する者も来なかっただろう」と告げられたのである。
しかし、その霊たちはこのことをよく理解しなかった。
この真理は類似した次のような実例を用いて示された。
その実例とは、
”もし誰かが自分の手を釘の刺さった壁にぶつけて手にけがをしたとすると、
けがをさせたのは壁なのか、あるいはその人自身なのか”というものである。
それは壁であるかのように見えるものの、当人は、それが自らのせいであり、
自ら招いたものであることを知っているのだ。

こうしたことは、善がそれ自身のうちに報いを宿し、
それ自身幸福に結びついているという事実と同じ源泉から発している。


[苦行や禁欲が人を救うのではなく、快楽や歓喜は許されている]
信仰をもつ者は生命の歓喜や肉体の快楽をすべて自分から除かなくてはならない、と考える人々がいる。
しかし私は、
歓喜や快楽は自分に決して拒まれていない、と断言できる。


[善人と悪人]
悪人を特徴づけるしるしは、その思考や言葉に含まれる観念が善から始まるのが普通だが、
結局は悪に終わる。
善人のそれは、その思考や言葉に含まれる観念が悪から始まる可能性があるが、善に終わる、
という事である。
なぜなら、悪人においては悪が普遍的に支配しており、
そのためその観念は悪の方へ揺り動かされるが、
善人においては善が普遍的に支配しており、そのためその観念は善の方へ揺り動かされるからである。
普遍的に支配しているのは、目的であり、肯定する基準である。
そのため、あらゆるものを引き寄せる面(plane)となっている。


「人が救われるのはその人の信奉する教派が何であるかによるのではない。
その人がどう生きるかによる」


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